
[ミレー『晩鐘』(1857-59年)]
♪ あなたに逢えてよかった
あなたには 希望の匂いがする
つまづいて 傷ついて 泣き叫んでも
さわやかな 希望の匂いがする
町は今 眠りの中
あの鐘を 鳴らすのはあなた
人はみな 悩みの中
あの鐘を 鳴らすのはあなた ♪
(作詞:阿久悠 作曲:森田公一 『あの鐘を鳴らすのはあなた』)
僕は感傷的な人間である。
ときにはその「おセンチさ」が鼻につき、イラっとする人もいるだろう。
それは自分でも分かっている。
それでも、僕はその「おセンチさ」を恥じたり、直隠しにはしない。
「おセンチさ」が自分を成長させてくれるものと信じているから。
そして時には、少なくとも他人の成長に寄与できるものと信じているから。
特に今は、大学を卒業し、およそ20年過ごした場所を離れようとしている時期。
これがおセンチにならずにいられようか。
平々凡々な人間でも、同じ場所で20年も過ごせば、
さまざまなドラマが生まれる。
生まれてから二十歳まで過ごした広島を第一の故郷とするならば、
二十歳から三十代の最後まで過ごした東京は、第二の故郷だ。
東京では多くを学んだ。
無為に過ごした最初の二十年より、なんと濃い人生だったことか。
そして失望ではなく、希望を持ってこの地を離れることができることに、
心から感謝している。
周囲が僕を育ててくれた。
なんと環境に恵まれていたことだろう。
最も恵まれているのは、そのことに自分自身が気付けていることだ。
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僕は生来、臆病な性格である。
そして、ネガティブ思考な人間である。
二十歳のとき、就職で上京した。
最初の一年は友達もいなくて、お金もなくて、時間だけがあって、
ジムでひたすら体を鍛えた。
そのうち会社の部活で合気道をはじめて、スキーをはじめて、
バドミントンをはじめて、テニスをはじめて、インラインスケートをはじめて...
仕事せんかーい!...ってな感じだったけど、仲間が増えて、輪が広がって。
短い間だったけど、新しい家族も持てて。
でも、それでもその頃の僕は、自分のことしか考えられなかった。
周囲のありがたさ、なんて露ほども分からなくて。
周囲の良いところが見えず、悪いところばかりを見て、悲観ばかりしていた。
それでも周囲は僕を見捨てなかった。
いい人にめぐり合わせてくれて、僕に考える機会を与えてくれた。
自分の近くにある、「良いもの」に目を向ける機会を与えてくれた。
三十代後半にして、人生を良いほうへ方向転換する機会を与えてくれた。
幸福の尺度はどのようにして決まるのだろうか。
金持ちか貧乏か、だろうか。
才能があるか、ないか、だろうか。
どれだけ他人に認められているか、だろうか。
どれだけ運が良いか、ということだろうか。
...どれも違うと思う。
これらは要因にはなっても、原因にはならない。
これらは自分の外にあるものであり、
自分の外にあるものは、自分の意図しないところで変わっていくものなのだから。
幸福の尺度は「自分をどれだけ信じられるか」。
自分の内にあるものをどれだけ信じられるか。
これに尽きると思う。
一番の不幸とは、「自分を信じられない」ことだ。
人間はエゴという殻から一生出ることができない。
その殻を信じることができなくて、どうやって幸せを感じることができるのだろう。
自分を信じられない人は、自分の明るい未来を信じられない。
自分が信じられない人は、他人を信じられない。
自分が信じられなくて、自ら傷ついていくのは自業自得なのだけど、
その姿はあなたを信じる周囲をも傷つけていく。
だから周囲はあなたから離れていくのだ。
そしてまた、あなたはこう思う。
「誰も自分の苦しみを分かってくれない」と。
こうして負のスパイラルは連鎖してゆく。
負のスパイラルから抜け出すには、
まず、無条件に自分を信じること。
知恵や能力が人を幸せにするのではない。
信仰が人を幸せにするのである。
どんなに科学が進歩しても、宗教がなくならないのは、
宗教が「信じる」という本質に根ざすものだから。
別にどこかの宗教に入れというのではない。
ただ、無条件に自分を信じさえすればいいのである。
それだけで世界は好転する。
「自分は頑張っている、でもどれだけ頑張っても報われないのだ」
そう反論する人もいる。
確かに。頑張っても報われないときもある。
しかし、僕はそういう人たちに問いたい。
あなたは自分の可能性を常に、無条件に信じているか、と。
目の前の幸運と敵対したりしてないか、と。
もちろん中には、意図せぬ強大な不幸に見舞われている人もいるだろう。
今回の震災のように。
しかし、それでも、人はやはり自分を信じなくてはならないのである。
そうすることでしか、人は幸せになれないのだから。
もともとポジティブな人はそれほど努力しなくても幸福になれるかもしれない。
自分を信じることが簡単だから。
もともとネガティブな人は幸福になるために、尋常ならざる努力が必要だろう。
自分を信じることは至難の業だから。
でもどちらにしたって、やっぱり自分を信じるしかないのである。
簡単だろうが、難しかろうが。
そして、簡単に人を信じれる人を妬んだり羨んだりしてもしょうがないのである。
そんなことをしても、できる人と代われるわけではないのだから。
今の時点で、幸せでないなら、努力が足らないのである。
努力だけではない、工夫も足らないのである。
悪いものへのセンサーだけ敏感にして、良いものへのセンサーが鈍感になっている。
幸せは外的要因で与えられるものではなく、内的要因により獲得してゆくものだ。
一部の例外を除けば、大多数の人は、
ちょっとした心の切り替えで幸せになれると思う。
世の中が便利になりすぎて、外的要因に頼りすぎている。
内的要因をおろそかにして、外的要因が少し麻痺したとたん、
もうだめだ、と悲観する。
科学は社会を強くしたが、人間自身を弱くしてしまっていないか。
どんなに科学が進歩しても、人間が自然界の一員であることに代わりはない。
弱肉強食、という自然界の掟が適用され、
強いものが生き残り、弱いものは淘汰されてゆく。
強いもの、というのはただフィジカルな面だけを言うのではない。
むしろ人間にはメンタルな強さが求められると思う。
メンタルが強い人間は最強である。
人間は、自らの知恵によって自らを進化させることができる動物だから。
生来のネガティブ思考を克服するのはとてつもなく難しいことかもしれない。
しかし一方で、ちょっとした「切り替え」で何とかなるものだとも思う。
人間は実現できることしか望まないものだ。
ただ、そのためには自分を知らなくては。
自分を知るためには周囲を知らなくては。
周囲を知るためには、世界を知らなくては。
自分を正確に知ることで、自分が実現できることを正確に知ることができる。
子供が荒唐無稽な夢を見るのは自分を知らないから。
大人になる、とは自分を知ることに他ならない。
自分を信じることができる人は自分をよく知っている。
自分をよく知っている人は、自分を表現する術をしっている。
自分が表現できる人は、他人に理解してもらえる機会を持っている。
社会の中における自分の位置を自覚し、自分が必要とされていることを実感できる。
それが幸せ、というものではないだろうか。
いずれにせよ、鐘を鳴らすのはあなた。
それが幸せへの祝福の鐘なのか、不幸への警鐘なのか、選ぶのはあなた。
つまづいても、傷ついても、泣き叫んでも、
「さわやかな希望の匂い」を感じ取る努力を怠らないこと。
それが幸せへの道だ。
有名になるとか、金持ちになるとか、そんなの関係ない。
僕はただ、幸せになりたい。